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兼山森家の話1(森可成が兼山に来た経緯)

美濃金山城は、岐阜県可児市の兼山地区にあります。

私の幼少期には隣接市町村の人は「昔は兼山に行けば何でも揃った」と話していた。兼山が商業的に発展していた時期があったことを示す話です。


斎藤道三が美濃を治めていた戦国時代、斎藤正義が兼山に東美濃を治めるための城を築かせました。それが「烏峰城」です。築城から11年後、城主の正義は謀殺されてしまい、烏峰城は番人はいるものの使われることがなくなっていました。


それから30数年たち、織田信長の東美濃侵攻が始まりました。

猿啄城から加治田城を攻略する過程が有名であるが、池田恒興軍と森可成軍が烏峰城に進軍したが、常駐の兵はおらず、そのまま接収したようです。

その後、烏峰城を立て直し美濃金山城し、信長に命じられ森可成は一族で笠松の田代から移り住んだとされています。


可成の兼山入りは「城を賜った」と伝わっており、城主として来たが「領主」であったかは不明です。この時期、信長の快進撃に従っていた可成は京都五奉行にも任命され、また宇佐山城主も任され、兼山に腰を落ち着けている状態ではなかったようです。順調に家威を高めてきた森可成であったが、宇佐山の戦いで坂本にて浅井朝倉連合軍との戦で討死にしてしまいます。

信長の家臣が兼山に出向き、可成の武功を褒め称え、嫡子の勝蔵(長可)に家督を相続させ、兄弟も取り立てることを伝えたようです。

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