裏森家とは

森長可が長久手の戦いで討たれ、家臣が首を持ち返ってきたが、可児の土豪等が可児入りを防ぎ、兼山までたどり着けませんでした。そこで首塚を作り遺族と遺臣が移り住んだようです。

兼山の森家は忠政が継ぐことになりましたが、跡取りがないと家はなくなるこの時代、忠政に何かあった時のために、長可の子らをかくれ里だった西帷子の石原の里で育てました。

多治見の旧臣若尾家の保護を受け長可の子は松千代(長義)と名乗り裏の森家として生きました。母は斎藤正義の孫で加木屋正則の妹であると考えられますが確かのことは分かりません。池田家からせんが嫁いでくる年の生まれであるので、せんの子ではないでしょう。

裏森家は宗家に何かあった場合の控えとして続いていきますが、忠政流れは長可流れとは関わらなかったので、出番がないままとなってしまいました。

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兼山町の美濃金山城主を代々勤めた森家は中興の祖として宗家となる森可成の家でその家紋は「森鶴の丸」と呼ばれる。一般的な鶴の丸とは区別されている。 翼の端が左右3枚ずつあり、個人的には「3枚羽」と呼んでいる。3枚羽で頭部が向かって左を向いているものが森家の紋である。 ところが可児市の帷子地区に頭部が右を向いているものがある。 これを個人的には「裏森家」の紋と呼んでいます。帷子にある真禅寺で見ることがで

どうやら麒麟はこなかったようだ。大河ドラマ放送による観光業特需のことである。市の知名度は間違いなく上がった。 業者は商品開発などの先行投資を回収できただろうか。甚だ疑問である。これが歴史物に手を出すと痛い目にあうと印象づけられてしまうと地元観光業者は動かなくなってしまいます。 元々可児市は武将に興味がなかったようで、光秀の扱いは低かった。ごく少数の一部の人がアピールしていた覚えはある。平成の合併で

地元に伝わる蘭丸の幼少期の逸話の中に弟(忠政)と茶の湯ごっこをする話が残っています。長可は家臣たちに茶器の鑑賞会のようなこともしていたとか。実は兼山茶なるものがありました。その始まりはわかりませんが、尾張徳川家に献上していた記録が残っています。当時は「鶴島茶」と呼ばれていたようです。 私が小学生の頃は「兼山銘茶」の名で売られていました。が、気がついたらなくなっていました。 先日兼山の人に聞いたら、