可児市の兼山町合併吸収

どうやら麒麟はこなかったようだ。大河ドラマ放送による観光業特需のことである。市の知名度は間違いなく上がった。

業者は商品開発などの先行投資を回収できただろうか。甚だ疑問である。これが歴史物に手を出すと痛い目にあうと印象づけられてしまうと地元観光業者は動かなくなってしまいます。


元々可児市は武将に興味がなかったようで、光秀の扱いは低かった。ごく少数の一部の人がアピールしていた覚えはある。平成の合併で兼山町を合併吸収したことで、美濃兼山城や森家という森可成、森長可、森蘭丸といった戦国時代の有名武将の歴史観光資源が舞い込んだ。この部分は合併によるメリットと考えられていたのだろう。ところが若干計算を間違えていたようだ。

合併により行政は統一されたが、従来からあった兼山町の商工会やその他外郭団体のようなものは地元の人たちに任せていた。つまり兼山町が進めていた「森蘭丸の里」など蘭丸推しの観光資源の活用は優先順位が下がり、町時代のような中心的存在でなく、市の観光事業のほんの一部になってしまった。

昔から兼山にいる人たちは活動するのに必要な金は市が賄うのが当然だという発想のままだった。なので予算をつけてくれないから活動できないという流れである。それでも地元の誇りを守ろうとする人たちが美濃兼山城の整備をしたり、麓の米蔵跡を整備するための費用を寄付してくれて米蔵跡広場ができたり、この5年くらいで地元住民も変わってきた。


しかし高齢化と人口減少も進んでいる。兼山からの市議会議員は0である。兼山町民だけで支えるには限界が見えている。

今や兼山も可児市である。可児市民も手伝って一緒に盛り上げていく時期ではなかろうか。

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