さて、13歳で家督を相続した長可は、17歳になるまで戦の招集はなく、兼山の内政に取り組みました。
城下の街を大改造する現在でいう「都市整備計画」です。町人エリア商業エリアなどを整備し「街の中での引越し」となったようです。
兼山は木曽川に面しており古来より兼山湊があり物流の要所でしたが、それを生かす建造物の再配置をしたわけです。それに合わせて信長に「海魚と塩の専売」許可をもらい、利権を得ました。この利権は明治時代になるまで続いたようです。
信長の商業政策に感化されていたのでしょう。戦には金がかかります。それを賄える収入を有する街にしなければ信長の期待に応える働きができません。そんな思いがあったのでしょう。
6のつく日の六斎市や3月市、芸能興行、馬の市なども行い賑わったようです。その甲斐あってか第2次伊勢長島一向衆攻めには2000余人の軍勢で初陣を果たし、第3次伊勢長島一向衆攻めには単独渡河による27人討ちで名を馳せてからは武人としての活躍が知られるようになって行きます。
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