兼山森家の話2(森長可のまちづくり

さて、13歳で家督を相続した長可は、17歳になるまで戦の招集はなく、兼山の内政に取り組みました。

城下の街を大改造する現在でいう「都市整備計画」です。町人エリア商業エリアなどを整備し「街の中での引越し」となったようです。

兼山は木曽川に面しており古来より兼山湊があり物流の要所でしたが、それを生かす建造物の再配置をしたわけです。それに合わせて信長に「海魚と塩の専売」許可をもらい、利権を得ました。この利権は明治時代になるまで続いたようです。


信長の商業政策に感化されていたのでしょう。戦には金がかかります。それを賄える収入を有する街にしなければ信長の期待に応える働きができません。そんな思いがあったのでしょう。

6のつく日の六斎市や3月市、芸能興行、馬の市なども行い賑わったようです。その甲斐あってか第2次伊勢長島一向衆攻めには2000余人の軍勢で初陣を果たし、第3次伊勢長島一向衆攻めには単独渡河による27人討ちで名を馳せてからは武人としての活躍が知られるようになって行きます。

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森長可が長久手の戦いで討たれ、家臣が首を持ち返ってきたが、可児の土豪等が可児入りを防ぎ、兼山までたどり着けませんでした。そこで首塚を作り遺族と遺臣が移り住んだようです。 兼山の森家は忠政が継ぐことになりましたが、跡取りがないと家はなくなるこの時代、忠政に何かあった時のために、長可の子らをかくれ里だった西帷子の石原の里で育てました。 多治見の旧臣若尾家の保護を受け長可の子は松千代(長義)と名乗り裏の

兼山町の美濃金山城主を代々勤めた森家は中興の祖として宗家となる森可成の家でその家紋は「森鶴の丸」と呼ばれる。一般的な鶴の丸とは区別されている。 翼の端が左右3枚ずつあり、個人的には「3枚羽」と呼んでいる。3枚羽で頭部が向かって左を向いているものが森家の紋である。 ところが可児市の帷子地区に頭部が右を向いているものがある。 これを個人的には「裏森家」の紋と呼んでいます。帷子にある真禅寺で見ることがで

どうやら麒麟はこなかったようだ。大河ドラマ放送による観光業特需のことである。市の知名度は間違いなく上がった。 業者は商品開発などの先行投資を回収できただろうか。甚だ疑問である。これが歴史物に手を出すと痛い目にあうと印象づけられてしまうと地元観光業者は動かなくなってしまいます。 元々可児市は武将に興味がなかったようで、光秀の扱いは低かった。ごく少数の一部の人がアピールしていた覚えはある。平成の合併で